sparklersの日記

自己顕示欲と羞耻心と。私に都合のいい私の話。

覚え書き

 常々思っているのだが、“幸せ”というのはおそらく信じているから見える感じられるものなのだよな。幸せというものが存在すると思わないと幸せはその人の前に立ち現れない。
 いわゆる“幸せ”というものの形があるとして、その形に幸せという名前をつけることを信じられている人は、“幸せ”を手に入れることもできるかもしれないし、手に入れることでより一層“幸せ”になる。

 こんなこと書くのは自分が不幸せだと思ってるとか、幸せが訪れないから不満不安とか、そういうわけではなく。
 自分はそもそも“幸せ”の存在を信じてないからそんなものあってもなくても何も起こらないんだなと思ったから。
 “幸せ”を“幸せ”と呼べること、信じられることも一つの能力で、自分にはたまたまその能力がないんだなーと思った。信じる能力を持ってる人はそれだけで“幸せ”なのかもしれない。
 信じるものは救われる、じゃないけど(信じるものは救われるって言葉がそもそもどういう文脈で記された言葉なのか知らないのに使っちゃうけど)、何かの存在を認めないことには何も起こらないのだろうな。

 何の存在に対しても懐疑的な態度のままだらだらしてるのが今の自分だよなーと思う。だから何も起こらない。起こしたくない気持ちもある。あらゆる変化や出来事が恐ろしいから。

 こんなの、どこかの誰かがとっくの昔に名前をつけて、スマートなやり方で文章にしてるんだろうけど、自分が出来る範囲の表現で書き留めておかないとどんどん忘れてしまうから書いておく。