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sparklersの日記

自己顕示欲と羞耻心と。私に都合のいい私の話。

東京

 この9日間で、バリ旅行と帰省をこなし、やっと帰宅。バリ行きはシンガポール経由だったので、6回飛行機に乗ったんだなあ。

 今回の帰省はバリの疲れのためほとんど眠っていて、家族親族としか話さなかったのだけど、今までで一番自分が故郷から離れたことを実感した気がする。

 脱衣所に並んだ換気扇とお風呂場と脱衣所の3つのスイッチがそれぞれどれだか完全に忘れてしまっていた時にも、ああ私はここの人ではないものなあと思ったが、酔った父親を見ていたとき一番故郷との距離を感じた。

 私の父は素面だと冗談も滅多に言わない堅物なのだが、酒が入ると饒舌になり、田舎(この言葉は安易に使いたくないけど、あえて。地方でもなく、田舎。)の小汚いおっさん然とした佇まいになる。殴ったり暴言を吐いたりすることはないので、直接的な被害を被ることはないのだけど、あまりの豹変ぶりを幼少時から不気味に思っていた。酒が入れば子供に甘くなり、なんでも買ってやると豪語するのだ。

 今回親族と集まって夕食をとった時も酒が入って陽気になっていたのだけど、恥ずかしいとか不気味だとかいう今までのような反応をせず、ああこの人はこういうタイプの人で酔わないと言えないことや出せないものがたくさんあるのだな、と、とても冷静な目で父を見ている自分に気が付いた。

 父の酔い方は、「酒が入らないと話せないことがある」だの「杯を交わして深まる仲がある」だのの言説を私が毛嫌いする原因にもなったのだが、今回はそういう嫌悪よりもただただ醒めた感情が先に立った。

 自分からずっと距離をおいて見てみれば、私はおそらく酔った時にしか明確な愛情表現をしない父親に不信感を抱いていたのだろうと思う。あるいは、素面であっても常に愛情表現を受けることを望んでいたのかもしれない。

 父が私を溺愛していることには何の疑いもないが、彼の私に対する言動は必ずしも私を幸せにするものではなかったため、私は彼をおそらく今も許せていない。解決するために向き合っていては寿命が訪れるだろうから、見て見ぬ振りして放っておいている問題だ。

 父をとても客観視できるようになったのはおそらく悪いことではないのだろう。同時に、この人が死を迎えて、母も死んだとして、この家がなくなったら、私には東京以外に帰る場所がなくなるのだと、見て見ぬ振りをしてきたことを直視せざるを得なくもなった。

 地元の良い所ならばいくらでも挙げることができるけれど、私は地元で暮らすつもりはない。土地に対する愛着や愛情と、そこで根を張ることができるかというのは全く別個の問題である。おそらく、そう考えている時点で私にとって地元はある種のディズニーランドのような夢の国であり、地元にとって私は余所者なのだろう。

 余所者としてこの土地と私との鎹になっている両親がいなくなったら、私はどうするのだろうかと思うけれど、直視して向き合うことを先送りにしながらまた東京での日々がはじまる。